• 過去の投稿を振り返る

    約1年前の投稿です。今もこの件で自身悩みもするし他人から相談も受けます。特に商売においてどう活かすか?智慧が必要です。

    2020年05月19日【独学の次 その21】

    時間がたっぷりあるので、
    久しぶりに、
    本を買って読んでいます。

    私にとっては難しい、
    世阿弥の『風姿花伝』に、

    ○ 秘すれば花
    秘せねば花なるべからず

    というのがあります。
    難しいですね。

    我が身に応用するのは、
    とっても難しい、
    と思いますが、

    余分なアピールを止める、
    それだけで十分、
    “秘する”という極意の尻尾が、
    掴める、と思ったりもします。

    身近な例で云うと、
    男が洗いモノなんかをして、
    やったよ!と妻に、
    云わないのが賢明ですね。

    あるいは、
    金銭でしか動かない仕事人間が、
    町内のイベントで頑張った時、
    SNSについつい、
    今日はボランティアでした!
    と、云いたいですよね。
    分かります。

    分かりますが、、、

    ボランティアをして、
    黙って帰るのと、

    ボランティアをして、
    SNSにアップしてから帰るのと、

    同じボランティアをした事実には変わりないのですが、
    実は大きく違うんです。

    これは、
    黙って帰るのが、
    当たり前のように出来ると、
    その違いが分かるようになります。

    もうひとつ挙げると、
    私の本業においてですが、
    物件の数が揃わない時に、

    コレコレ余分に時間をかけて、
    アレコレ特別な努力をして、
    ソレラを準備した、と。
    事実ではあるけれども、
    不必要な説明を、
    ついつい言ってしまいがち。

    云わないでは済まされない自分と、
    云わなくても済むようになった自分と、
    よくよく比べると、
    “秘する”チカラが、
    思わぬところで花になる。

    まずは手始めに、
    仕事が終わった後、
    自分がどう在るか観察し、
    徐々にでいいから、
    “秘する”を実行する。

    これは、
    新しい仕事の基本かなあ、と。

  • the 20th anniversary of the founding of REAL JAPAN Co., Ltd.

    こんにちは!
    REAL JAPAN(株)の、
    ノーマン上西です。

    早いモノで、
    REAL JAPAN創業20周年です。

    相変わらず日本全国各地方でサービスを提供しておりますが、新たな試みとして、私自身住まいを東京に移しました。都内の各地域や物件を研究しております。

    自身がTransfereeになる事で初めて見えてくるリロケーションの諸問題を、外国人顧客(入居者側)に対するバイリンガルサポートに活かせるよう日々務めております。またそこに留まらず、オーナー(建物管理側)に対するコンサルティングが業務として定着して参りました。

    この先もそこにご要望がありお呼びがかかる限りは、会社を存続させようと考え邁進いたします。

  • 外国人向けのサービスに長く携わった末のひとつの答

    外国人向けのサービスに長く携わって、ふた通りの業務を創造して参りました。

    ひとつは、アパートを紹介するという事に端を発して、家具家電・自動車等ひろく生活必需品を扱う事や、同行通訳・入居期間中の管理に携わり、かつサービスエリアを日本全国に広げていくという業務。

    もうひとつは、上の日常業務を通して、拡がりすぎた業務を細かく仕分けし、初期のアプローチでどこまでをどれぐらいの料金で提供するか顧客と共有できるノウハウであり、顧客の事情に合わせ絞り込む業務。

    現在では、賃貸居室管理会社、アパート仲介業者、企業社宅管理担当者などが、主たる日常業務に対してどう付加価値を拡げていくか、あるいは問題を起こす事なく手間を省いていくか、という具体的実践の、コンサルティングを提供しております。

     

    また個人のスキルアップのきっかけになればと、過去に投稿したメルマガをFACEBOOK上で振り返っております。

    REAL JAPAN | Facebook

    私の技術も紆余曲折あって、廃たれてしまったノウハウもありますが、未だに最先端だと思える技術(ノウハウやサービス)も開示し、エッセンスを見ていただければ、と考えます。

    20年目の現在は、商売とは一見矛盾する“護身術”と”秘すれば花なり”という智慧に倣って、究極の仕事と技術を探求している所で御座います。

    仕事によって、体を壊したり、寿命を縮めたり、そのようになりがちな所ですが、本来そうであってはならないのだ、と。我が身を救ってくれるのが仕事であるように仕向けなければならない、そう思っております。また当社が誇る技術や顧客への貢献は、押し付けるモノではないしポーズでもない、ただひたすら日常の当たり前のサービスとして、密かに継続できればと考えています。

     

    上西伸弘 Norman Uenishi

    上西個人が関わっております空手の直接指導につきましては限定して細々と活動しております。空手道に入門するご相談には随時応じております。norman@newrealjapan.com

     

  • Home-Findingサービスについて

    住宅を探す最初のヒアリングに始まり、広い情報による学習機会の提供、そして物件をひとつに絞るまでのコミュニケーションサービス。

    例えば企業人事から外国人赴任者A氏の住宅探しを依頼される。家賃20万円、広さ100㎡以上、名古屋駅徒歩5分以内、その他詳細の要望が分かる。その最初の要望が判った時点から実際に物件がひとつに絞られるまで、結果として3週間かかり物件は家賃25万円85㎡名古屋駅徒歩25分であった。さて、この途中経過の3週間に何が起きていたか?

    まずこの人事部からの依頼で、外国人赴任者の社宅を契約するという条件において、家賃20万円という最初の提示があった場合、実は、最終結果の25万円85㎡という答えは想定できていたという事。A氏とのやり取りも含めて様々なコミュニケーションや物件資料の提示、そして現地案内に至る、ごく初期の段階に、3週間で結果が出るであろう事、また条件がどのようにシフトするであろう事など判りながらリーダーシップを執る。同時にそのような答えが適切であろう事を外国人赴任者と人事部の口からも引きしている。彼らも、大まかな予測と希望があるが、実際どう展開するかを知らない。そんな知らない方達を相手に、コミュニケーションを開始して早い段階で、方向性を提示して、リーダーシップを執る。物件をひとつに絞るまでのコミュニケーションを管理する、ソレがプロフェッショナルであり得るので、その料金を頂戴している。(絞られた後の契約手続きや、入居サポートなどは、別のサービスとして存在するが、それらはまた別途後述する。)

    ところが、プロとして機能しない要望もある。最初に聞かれる要望として、例えば個人契約で家賃10万円、広さ70㎡、名古屋駅徒歩5分というモノ。その結論がどうなるか?実は予測できない。10万円70㎡、しかし場所は15キロ離れる事がある。あるいは7万円で40㎡、名古屋駅徒歩20分という結論もある。それらの結論に至るのが5日間であったり2か月間であったりする。個人契約で最初の要望が家賃10万円という場合は、当社のプロフェッショナリティーが発揮できない。またひとつに絞るまでのサービスを有料で受けたいという要望も少ないのが現実である。

    当社はプロフェッショナルとして、エリアは幅広く扱える。全国どの地方都市でも可能であるし実績も豊富である。しかし多くの日本人が探すのと同じような家賃帯や、一般的なタイプの賃貸マンションだと実績が乏しいので有料での当サービスの提供は控えている。

  • 上西伸弘がNORMANそして現在のREAL JAPANに至るまで

    上西伸弘とNormanそしてREAL JAPAN

    今日までの軌跡

    ○ アパートのあっせん業務 1993年2月~1994年3月
    ひとりの営業マン上西伸弘、ニッショー(賃貸仲介業者)に入社。名古屋市中区の限られたエリアの物件を扱い、企業内転勤、学生、水商売を対象にアパートのあっせん業務を学ぶ。いかに効率よく成約に導くかを課題にし、1年間で300契約の業務をこなす。業務とは主に、一般客からの反響電話に応じ、来店を促し、店舗にて接客し、物件を見せて廻り、成約し入居させる。その間家主側との折衝、契約、決済など同時に進行するあっせん業務全般の経験を経る。

    ○ 外国人向けの営業 1994年4月~1995年3月
    外国人向けに営業する任務を与えられる。この時からNorman(ノーマン)と名乗る。外国人向けのパンフレットを作成する所から始まり、外国人の所属しそうな、市や県の教育委員会や大学等に営業を重ね、結果、英語の先生や留学生の契約を得る。最初は英語でアパートについてどう説明するかを工夫する。しかし最も重要だったのは英語ではなく、顧客の欲する物件だと分かる。この時の顧客は40㎡ぐらいで6万円、エアコン付きで礼金のないモノを望む傾向にあり、つまり礼金とは何かと英語で説明する技術よりも、礼金を無いようにする技術が重要だ、と気づくのに1年を費やす。徐々にコツをつかんでそのような物件を確保し、あるいはその条件に近い物件の家主と交渉する事で、よりよい物件に仕立て・確保し・紹介するという手法を取る。同じような趣向の顧客を対象に、同じような条件の物件を紹介する事で成績を上げるも、日本人向けに業務をしているのに比べて10分の1ほどの売り上げ数字しか残せず。

    ○ 商品の拡大 1995年4月~1997年3月
    領事館と外資系企業の存在を知り契約に着手する。領事館は、手数料、敷金、礼金をゼロにしなければ契約が出来ないというモノ。かつ家主側(管理会社側)の所定の賃貸借契約書の文言に、しかるべき修正をかけなければ合意に至らないというモノ。賃貸住宅の契約でそんな交渉は当時在り得ず、領事館職員は止むを得ずホテル住まいしていた。アパートに住むのをあきらめてホテル住まいする職員を対象に、物件の発掘、家主との交渉に取り組み、ひとつづつ成約に結ぶ。初期の頃は通常の英語の先生を扱う時の5倍ほどの手間がかかる。次に外資系企業の契約。こちらは家賃30万円以上の高額物件で、やはりそのような物件を発掘するのに時間がかかり、そのような物件が名古屋にも存在している事を、徐々に把握し、それぞれの家主と人間関係を作り、成約に繋げる。これらふたつのタイプの顧客を成約していく事によって、今まで名古屋市中区しか対象にしていなかったエリアを、愛知県全域に広げる。さらにこれらの顧客からは、家具や電化品をリースする事も連結してサポートするよう命じられる。住宅の選択だけでなく、家具家電も選択し、搬入日の調整を住宅の入居日に合わせ、契約日や入出金日を管理するという、難易度が高いモノになる。顧客とのコミュニケーション全般のサービス向上と、スケジューリングの技術を得る。

    ○ ライバル業者の存在 1997年4月~1999年12月
    外資系企業の契約数が増えるに従い、ライバル業者の存在が視野に入る。顧客を奪い合う。その業者はH&Rコンサルタンツ。経営者はアメリカ人。当時は、外資系企業からも家主からも酷評だったが、契約はなぜかその会社に流れる。Normanは外資系企業向けに成果を上げてわずか5年で行き詰まるが、その会社にヘッドハントされる事となる。

    ○ ライバル業者の社員になる 2000年1月~2002年1月
    H&Rコンサルタンツの部長として仕事をする。
    大きな収穫は、彼らの積極的な営業力から進化した、日本全国をカバーし得るリロケーションサービスのノウハウ。それはアパートのあっせんを柱にするのではなく、外国人顧客と同行して日本に赴任する事全てに関わり秘書的なサポートをする、というリロケーションサービスを学ぶ。更にもう一つは、顧客としての外国人と接するだけでなく、同僚としてつまり、外国人上司および外国人部下と接し、外国人に対する理解を深くする。

    ○ REAL JAPAN 2002年2月~2008年2月
    会社員を卒業し、REAL JAPANを創業する。実質ひとりで全ての業務を廻す。リロケーションサービスを全国を対象に行う。秘書的な同行業務を皮切りに、住宅の契約、家具家電の手配など、ひとりの外国人赴任者に対して幅広いサービスの提供に努める。客観的に捉えると、独立後最初の5年間、顧客の数は十分恵まれていたといえる。しかし外国人顧客サービス業務だけを頼りに、既存の顧客だけで満足していたため、売上数字は安定せず。人情に左右され、出張の度に経費がかかり過ぎ、利益は挙がらず。この時期に、利益を出すための戦術として生まれたのが、社宅借上げサービスと云うノウハウ。後に大きな売り上げをもたらす商品に発展するが、この時点では、数が少ないため安定には至らず。

    ○ リーマンショックと東日本大震災 2008年3月~2014年3月
    社宅借上げサービスが徐々に定着してきて、数も増え始め利益が出始めた時、リーマンショックが起きる。一時的に新規の外国人赴任者が現れなくなる。更に持ち直して売り上げを伸ばした時に、東日本大震災で、多くの外国人が退去する事になる。このふたつの出来事により、外国企業及び外国人赴任者との契約が成立するたびに、その過程を検証し、他に付加できるサービスはないか?相手の要望に広く応えているか?貪欲になり吟味し、次の実務で改善を試みる。社宅借上げサービスは、家具家電・日用品・電気・ガス・水道・ネット・携帯電話・区役所同行などほとんどすべてを網羅する契約に発展する。また単発でのサービスも積極的に受け付ける。スポーツジムの入会手続きや毎月の支払も家賃に組み込み、顧客側の手続きを簡素化する。サービスの例として、ある顧客企業は、携帯電話をレンタルしたいという要望で、携帯電話ひとつだけを準備して外国人赴任者に納めるも、当初のホテル住まいという予定を変更してアパートを探す事になり成約し、それが1ヶ月の間に5件になり、しかも1年後退去する時には、納税の手続きまで任されサポートする。
    この時期日本語の指導を依頼される。“ごちそうさまは2度言う”という日本的な慣習を絡めた日本語の指導は好評で2年間続く。

    ○ 売上に翻弄される 2014年4月~2018年12月
    サービスのもうひとつの例として、2014年の顧客は、清掃サービスだけの依頼。アパート探しやその契約は他社が行い、当社は清掃サービスだけを引き受ける。本来ならバカにするなと言って相手にしないが、この時は毎週2日、外国人社員10戸の居室の清掃だけを引き受けた。これをするにあたって清掃の内容を確認するために各社員と個別に話し会い、実際に清掃員を派遣する際に、細かな連絡事項をやり取りするうちに信頼関係が出来る。結果、この先に来日する(11人目からの)社員全員のアパート探しからトータルでサポートを任される。結果30人近くの社宅借上げサービスを提供する事になる。この大口顧客の外国人社員全員に対してはその後、(区役所や銀行といった必須同行だけでなく)免許センター、警察署、中古車屋、自動車レンタル、カーナビ取り付け等、あらゆる同行サービスを、低料金で提供する。

    この時期から、メンテナンスイッシューに対する意識を変える。メンテナンスイッシューとは、入居期間中の、アパートの不具合や設備の故障など、苦情や要望に応えるモノ。建物の管理会社に丸投げするのを止めて、また避けようという意識を持たず、いかに積極的に応じるか、ソコに利益を見い出せるか、を探求し実践する。
    この30人以上の社宅借上げサービスは2年で、彼らの日本での任務が終わり解約になる。その際、解約になった部屋を家具家電もそのままにしてしばらくキープして、他の入居者獲得に乗り出す。その当時は非常に問い合わせが多かったため、決まるまで賃料を払って入金なしで待つ。結果、単発の顧客は取れたものの、空室の殆どは無駄に終わり、大幅な赤字を生んでの解約となる。銀行からの借り入れなどあらゆる手を尽くして運転資金を調達し、急に少なくなった顧客を扱い、苦しい経営状況を踏ん張る。リーマンショックと東日本大震災で、顧客減少の経験で学んだつもりだったが、このように大口顧客に恵まれ大きな売り上げが2年続いた事で、謙虚さを失い、次なる戦略を用意せずにいた事が最大の敗因だと猛省する。

    ○ 集大成 2019年1月~2020年3月
    じり貧の状態ではあったが、常に顧客企業からの問い合わせに必死になる。この時期とりわけ努力したのは全国でのサポートを要望している、といういつもの要望にプラスして、家賃が非常に安く、家具家電も格安で、サービスをカバーしていこうというチャレンジである。初めての取り組みでもあり、なかなか合意には至らず。2018年お試しで2~3件ほどアパートのみ契約する。家具家電は未だ提供に至らず。2019年この顧客からの強い要望の末、随時契約を任される。途中家具家電も引き受ける事になる。得意の家賃帯では無いため、利益を出すのが困難だったものの、数が多く徐々にその家賃帯での技術も掴み、1年間で、全過程のあらゆる部分の効率改善によって、利益が十分出る事を証明する。メンテナンスイッシューへの取り組みも、年々熟練された上で、この顧客によりさらに磨きがかかる。積極的になればなる程、利益こそ生じるものの、マイナスの手間はどんどん減っていく事が証明される。数多く扱う事で、こちらの専門でない事もどんどん生じ、また依頼を受けるようになる。自動車レンタルや、簡単な荷物の発送、海外への輸送、ホテルの予約、それらすべての見積もり、等、今までなら断っていたことも即見積もり数字を出せるようにする事がいかにビジネスを広げるか理解できるようになる。

    ○ 世界的新型コロナ 2020年4月~
    数多くの社宅契約により安定し、かつ長期的な右肩上がりに向かうであろう見通しは、逆に、経営者個人には良からぬ影響を及ぼす。人間はやはり弱いモノで安定と右肩上がりを約束されれば、傲慢になる。守りに入る。当社にふさわしい仕事以外は断るようになる。リーマンショックと東日本大震災でダメージを受け、しかし這い上がって売り上げに翻弄された経験をもってしても、安定と長期的な右肩上がりの見通しが、経営者を傲慢にさせるのだ。とはいえ幸か不幸か、そのような人情が入り込む隙を、世界的新型コロナが封じる。新規の外国人赴任者が現れない、解約はある、どの外資系企業も同じような状況であり、世界的な現象である事、今まで通りに仕事をすれば間も無く売り上げが無くなる、と気づく。仕事の矛先は、現在外国人が入居している居室に向く。それをひとつでも取り込む事。今までなら利益とは捉えていなかった、入居者の管理、退去の手続き、清掃、残置物の処理、家具家電の撤去・交換、入居者入替手続きなど、改めて、それぞれ単発の商売として見直す。当社が最も技術を誇るホームファインディングサービス(入国時の同行業務から住宅探し契約入居まで)を、主たる仕事と位置付けるのを止める。ビジネスをゼロから捉え、何でもいいからソコに現れた需要にひとつづつ応え、主も従も分けずに臨む事に、ノウハウを発揮する。一見利益が出ない業務に利益を見出す。今までは高度な事を仕事だと思っていたが、改め、ソコにあるモノや縁を扱い、数がたくさんになれば、それらは立派な商売であり利益も出せる、という信念を持つに至る。また高度な技術は、高度な技術と思って接すれば、後に高度足り得ると理解し始めたため、仕事が激増しこれ以上顧客を増やせない状況に至る。

    外国人赴任者の入国・滞在・帰国までの全過程におけるコンサルティングサービスを、いまだ日本全国かつテーラーメイドで、顧客(約20社のグローバル企業と2社の不動産管理会社)に提供している。

    サポートした外国人赴任者は累計3000人を超える。(2021年3月現在)

  • 上西伸弘の自由で恥ずかしき50年と素晴らしき先輩諸氏

    子供時代

    自動車整備工場で働く父上西忠明と、和裁をして家計を支える母和子の次男として、昭和45年名古屋市中川区畑田町に生まれた。ふたつ年上の兄とふたつ年下の妹がいて、5人家族だった。5歳の時に畑田町の長屋から、西中島(旧称 字甚兵衛起)の分譲団地に引っ越した。

    当時としては多くがそうであったように、我が家も経済的に裕福ではないが、公立の小学校、中学校、高等学校へは通えた。私の兄も妹も、そして多くの友人も同様だった。

    私は目立った問題を起こすような子供ではなかったが、定められた勉強をする事が年々嫌になった。学校の先生は嫌いではないし、大好きだった先生も何人かはいたが、学校から何か影響を受ける事は無かった。家の経済的な事情ではなく、自分の意思で大学への進学を望まなかった。

    子供の頃の学びについて、後に振り返って実感した事は、父からは日本語を学んだ。日本語とは、物事を白黒はっきり述べる習慣であった。母からは私に暴力が必要ではない事を教わった。その教えは人を殴るという感触が不快かつ後悔の念を伴うものとして身体に備わった。

    兄や妹からは、喧嘩が無駄である事とそれを避ける要領を、実体験する機会を与えられた。

    その他子供時代に特筆すべき事は、空手との出会いであり先生(竹内孝美氏)との出会いだった。自分にないモノ、あるいは弱点を補うモノを見つけ、習得しようと試みる習慣が一生モンとなった。子供時代は空手がその習得の対象になった。もやしのように細く色白の少年は3年生で黒帯になり4年生になると全国大会で優勝するまでになった。大会で勝つ事の面白さを覚えてほとんどの大会でトロフィーをもらうようになった。しかし小学6年生になると全く勝てないようになった。そういう頃合いで先生も遠方に引越し、指導を受けられなくなった。中学生になると、師範(佐藤政勝氏)との出会いがあった。この師範は先生の師匠だったのだが、空手の基本からやり直し、弱点を克服するキビシイ稽古を課してくれた。中学3年間で培った基本は計り知れない程重要な技術だったが、高校生になって間も無く師範の稽古に飽き、そして去った。独学で空手を磨いた。目標をインターハイだけに絞り、勝つための傾向を捉え、空手部の無い高校に空手部を一時的に存在させ、インターハイ出場を3度果たした。独自に編み出した効率の良い練習を重ねる事が功を奏した。このように自分の考えで自由に行動するというアイデンティティが芽生えたのは、16歳で実家を出て、伯父家での下宿経験によるものだった。会社経営をしていた伯父夫婦(井本岩男・和代)と自分の両親との、考え方生き方の差を鑑みて、自分の道を自由に拓こうとした過程が、空手だけでなくその後の人生に大きく影響した。

     

    社会人スタート・専門分野に落ち着くまで(1989年~1999年)

    高校3年生までの12年間は、スポーツとして、競技空手の活動を経験しインターハイまで出場したのだが、武道としての強さが備わっていない事には葛藤があった。元々空手はスポーツではなく護身術であり武道だ。一般的にも空手イコール喧嘩に強いモノと云われがちだが、現代の競技空手に漬かっているうちは他のスポーツと同じなのだ。護身術や武道としての強さが身につくものではないと自覚し、高校卒業を機に空手をきっぱりやめた。そして総合的な体力を渇望し、体を鍛える職業に就こうとひらめいた。馬の牧場は相当キツイと噂に聞いたのがきっかけになって、北海道の牧場(日高白井牧場)に就職した。

    空手によって体力に自信があったからこそ感じたのだが、この牧場では、体重500キロのサラブレッドが、いかにパワーがあるかを思い知らされた。スピードもあった。自分の突き蹴りがいかに弱いものであるかが判明した。また馬に乗るという柔軟性を要する一連の業務を毎日6鞍(くら)遂行し、朝昼晩と馬房の管理に携わる労働が、我が体力の脆弱性を明らかにした。馬に乗るという仕事の他に、夏は牧草刈り、冬はまだヒトを乗せられない若い馬を馴らすという、危険と隣り合わせの業務を与えられた。特に若い馬を馴らす業務は毎朝逃げたくなる程であった。この牧場で1年半在籍して多くを学んだ。体力は格段についた。高校生の時に比べて、肉体的に強くなったと実感した。更にこの牧場では、想定外の実りもあった。全国から集まった若者たちとの寮生活が貴重な体験となった。仕事から離れても、彼らとの交流が親密に行われ、自分の体力がいかに並みであるかを思い知らされた。ある同僚(通称牧やん)には、腕相撲で勝てず、馬乗りの技術においては遙かに及ばず、おまけに酒の強さで完敗した。しかしそのような、若い時に映える比較が、どれ程のインパクトもない事を理解し始めた。むしろ人間関係においては、コミュニケーションが大事であると感じた。自分にはそれが人より出来ていると思った。相手を観る目は誰よりも正確だと悟った。誰に対しても適切な会話が自然に出来る能力に気づいた。またニュージーランドから来日した馬乗り(幼い頃から馬に親しんでいる私と同年代の若者)2人と生活も仕事も共有する事によって、馬乗り文化の違いを学んだだけでなく、人と接する職業、営業というモノに目覚めた。北海道での仕事と生活を満喫してもう十分と思った頃、興味の対象は海外に向き、インドという土地へ、放浪の旅に出た。ハタチの秋だった。

    インド放浪の旅はカルカッタから始まった。ヴァラナシやデリーなどの大都市を訪れたり、砂漠地帯をラクダで巡ったりし、南に下ろうとしていたボンベイで腹痛を発症し、3カ月の予定を繰り上げて1ヶ月で帰国した。体力には自信があったが、精神力がお粗末な事に気がついた。精神面、そして頭脳を磨きたい、そのためまずは営業の仕事を志し、手始めに、高校時代に世話になった前出の伯父の会社(井本モルタル工業)に入社した。コンクリートポンプ車を扱う営業の仕事だった。社会人として全く不適格で若すぎる私のような自由人を大切に扱ってくれたのに僅か1年で辞めてしまった。次に呉服の営業の会社に入社した。訪問営業の難しさに、正当な売り方がある事を実地で教えてくれた社長(岩下一臣氏)や営業部長(大口修氏)との出会いは特別なものになった。しかしここも1年で辞めた。この間に妻と出会い結婚した。ここまで仕事を度々替えていたが、これではいけないと思い、何とかして長期的に働ける職業につきたいと思った。アパートの仲介営業会社(ニッショー)に入社した。間も無く23歳になった。そして長男が生まれた。

    それでも仕事にはなかなか腰を据えて打ち込めなかった。しかし1年やそこらで辞める訳にはいかないと必死になっていた。そんな折、ニッショーの社長(加治佐健一氏)が国際部を新設すると発表し、私は希望しその任を担う事になった。

    外国人向けのアパートあっせんを覚えた。ほとんど独学だった。市や県の英語の先生に始まり、留学生、外資系企業の駐在員、領事館の職員など、様々なケースを扱った。ニッショーには7年間在籍できた。外国人向けの専門性を培ったのは飽きっぽい人間にとって良薬であった。また、仲介業としての高い能力を披露してくれた上司(早川薫氏)との出会いがあった。トラブルというのは、自分がトラブルだと思うからトラブルになるのだという考え方と、仲介業者としての責任区分を超えないための緻密な初期動作は、貴重な体験の場になった。

    さらに、外部からのコンサルタントで、外国人向けのコミュニケーションの仕方を教えてくれた先生(ミキレガット氏)との出会いは貴重だった。英語でコミュニケーションをとる際の集中力の使い方とその事前準備など、この女性から、総合的・国際的ビジネスマンの理想を垣間見た。

    そのような善き出会いが、私の仕事をダイナミックなものにした。外国人一人を、最初のアプローチから、案内、家主との折衝、契約、入居に至るまでの全工程をよりスムーズにするよう磨きをかけた。その結果、外国人・家主双方から絶賛された。一方社内的な功績として、インターネットをいち早く不動産営業に活かした。物件検索など今では当たり前の仕組みが、まだ存在しないこの年に、当時アパートニュース出版編集長(中村正男氏)の英断に押され、物件情報を公開するホームページを外国人向けに作り、実際に稼働させ結果を残した。

    10代の頃に抱いた強くなりたいという願望は、20代になると営業の世界で一流になりたいというモノに形を変えた。更にその営業という土台の上に外国人向けの専門的なビジネスを確立させるという立体的なものとなった。

     

    結婚と長男誕生までは、職業に対して不安があったものの、割と早い時期にこのような専門的な仕事に恵まれた。自宅マンションを購入し、次男と長女も生まれ、家族5人健康で順風満帆な男は、齢29になっていた。仕事に対しては向かうところ敵なしといった勢いだった。同時に家族を省みない男でもあった。

    私が20代の頃の家族の思い出は散々なものだった。小さな息子二人があらゆるいたずらで妻を困らせるのを一緒に共有できなかった事を後悔した。私が大事にしていたカセットテープからテープを引き出してテープまみれになる長男がいた。ある時夜中に寝返りを打って頭部に違和感があった。それはうんこが付いたためで、隣には下半身裸で布団に入っていた次男がいた。あまりに悪さが酷い息子二人をベランダに出して放って置いたら、植木を全て投げ捨てたので驚いた。5階だったので下で誰かに当たっていないか青ざめた妻がいた。大事にしていた植木だったので泣いていた。すべて真正面から向き合わず、逃げたり茶化したり、誤魔化したりした、後悔すべき夫であり親父だった。

     

    30代(2000年代)ヘッドハンティングそして独立

    外国人向けのアパートあっせん業務が出来るようになって、顧客や家主からの評価も高くなってくると、ニッショーという社員500人の、地元に根差した不動産会社に所属している事が、窮屈になってきた。日本人向けに営業するスタイルと、外国人向けとでは顧客サービスが異なるため、よく誤解を招いた。会社としても私や外国人向けサービスをどう扱って善いのか、という知恵が無かった。売上だけで見ると決して褒められた状況ではないのに、誰も出来ない外国人向けの部署を運営している事で威張っていた私は滑稽だった。

    そんな折、小さな外資系企業にヘッドハンティングされた。H&Rコンサルタンツ社長(スコットリード氏)との出会いだった。私がニッショーで実践してきた、顧客からも業者からも苦情ゼロのマネジメントを、社に根付かせたいというのが氏の狙いだった。私にとっては外国人向けのサービスを更に磨く絶好の機会だと考えた。この社で部長として迎え入れられた。このような待遇に更なる自信を得た。間も無く30歳になった。

    名古屋本社と、大阪・東京支店を運営した。外国人上司と、外国人・日本人部下数人が、私を中心としたチームとして、私の指示に従った。自分は主役だ、と信じてやまなかった。父から学んだ白黒はっきり述べる日本語、岩下氏から盗んだ営業力、早川氏に教わった仲介業者としての心得、そしてミキ先生から垣間見た総合的・国際的ビジネス力、これらをいかんなく発揮した。ニッショーとは異なり、外国人上司と部下のいる環境で、ニッショーの時と同じ顧客や家主を対象に仕事を遂行した。研鑽したのはわずか2年間だったが、私にとっては自信の付いた時期であり、新たに日本全国でサービスを提供する経験を積めた。そのサービスは、アパートのあっせんだけではなく、同行通訳や、家具家電・自動車のリース契約など、あらゆる可能性を秘めていた。この会社では衝突も多かった。やる前から分かっている無駄なサービスを、事前に見通せた私がそれを阻止しようとして、しかしそれが理解されずぶつかった。これは社長や社員全員の能力不足と云えない事は無いが、むしろ私の未熟さと経験不足、そして説明責任の重要性を十分判っていなかったのが圧倒的な要因だった。まだ若い平凡なビジネスマンには当然だった。そのような衝突も含めて、自分は独立しても十分仕事ができると思い自信満々でH&Rコンサルタンツを去った。32歳になった。この時はまだ営業という土台も、外国人向けサービスの技術も、実は中途半端なレベルでしかない事に気づいていなかった。しかし若さゆえの勢いは止まらなかった。REALJAPANを創業した。

    この時の独立を応援してくれる紳士が存在した。ニッショーに在籍していた嘱託職員(竹島堅治氏)だ。氏はケニーという愛称で、外国人向けサービスの一端を私と共にニッショー時代に担った人物だった。300万円を融資してもらえた。しかしそれは開業資金に全額充てられた訳ではなかった。実はこの時すでにローン会社などの借金を背負っていて、その返済に多く充てられたため、直接的なビジネス資金とはならなかった。営業や外国人向けの技術といった仕事全般の能力だけでなく、金銭管理も(この時点で借金があったぐらいだから)未熟だったのだ。私が会社員時代に抱いていた、向かうところ敵なしの自信は、何の根拠もないのだ、という事が徐々に分かってきた。

    そのような総合的な能力が不十分で欠陥があったものの、独立後初年度から数社の顧客から仕事を得ていた。広島と名古屋で外国人赴任者のサービスを請け負った。出足は快調といえたがそれを十分生かし勤勉に向上していくという努力が欠けていたようで、40歳までの数年間をトータルで見ると、売上はマイナスだった。独立後、大丈夫だったのは評判だけで、勤勉さの欠如と低い売り上げ結果は、十分過ぎる程の致命傷だった。それだけでも落第点なのだが、それ以外にも問題がたくさん噴出した。

    まず、家具のレンタルを扱っていた取引業者(近藤産興)が取引しないと言ってきた。H&Rコンサルタンツを辞めた男には協力しない、と。同時にH&Rコンサルタンツから民事裁判を起こされた。辞めた後同種の業務をするのは契約違反だと。その裁判に1年あまり付き合う事になり、結果敗訴になった。敗訴の日から2週間営業出来なかった。その判決自体は些細な損害だが、裁判に1年間煩わされた事が精神的に辛かった。

    2年目、3年目と徐々に仕事を安定させるのが困難になった。とはいえそれらの問題は実は小さな問題だという事が徐々に判明してきた。むしろ、売上数字を安定させる為の積極的な我が営業姿勢こそが、何よりも大事だったのだが、それが出来なかった。ただ目の前の案件に振り回されるだけで日々は過ぎていった。

    独立後の数年の様々な出来事は、自分は営業能力しかなく、かつその営業能力すら、単なる上辺だけのコミュニケーション能力であり、金を稼げる実践力ではないのだと徹底的に知らしめた。営業というのは1年を通した行動全般に至るべきだと判った。外国人向けの技術も同様に、浅い経験で事を収めるだけの低レベルのモノでしかなく、1年を通して売り上げる総合的なものを実践する知恵や行動力が無い事に気が付いた。

    会社員時代は常に人のせいに出来たが、独立後はすべて自分の実力のせいにしか思えなかった。向かうところ敵なしの自信はついに跡形もなくなった。

    この様な苦い経験がほとんどだったが、プラス材料もあった。家具家電を自社で賄う事を始めた。これが社宅借上げサービスに発展した。

    いくつかの顧客企業が2004年から2008年頃までこの社宅借上げサービスを利用し始めた。今までにない高い顧客満足と高利益をもたらした。

    出張先(サービス範囲)も沖縄、鹿児島、鳥取、広島、岡山、大阪、浜松、横浜とどんどん増え、国内どこでも社宅借上げサービスを提供するようになった。

    30代は中途半端な技術を過信した自信を胸に、営業能力と外国人向けの技術に磨きをかけたいと思っていたが、中途半端な力で、中途半端な覚悟しか持ち合わせていなかったため、独立した事によって、今まで培ってきた全ての能力は、中途半端がより鮮明なものになり、役立たない事を悟った。

    例えると、道場では誰にも負けないが、しかし十分鍛錬したとは云えない空手家が、街角で凶悪な輩を前にすると、役に立たなくなるのに似ていた。

    会社員として仕事をするのと、独立して仕事をするのでは、何もかもが違っていた。30代は自分がドンドン消極的になった。自信を無くした。培ったものは役に立たないと悟ったものの、どうしたら良いか為す術が無いままだった。目標も立てられなかった。何を学ぼう、という具体的な指針も意欲も持てなかった。

    社宅借上げサービスを全国で提供できると云うノウハウを実践し確立した事だけが唯一の収穫だったが、継続的で安定した受注がなく、リーマンショックのような大きな波に為す術もなく、借金に頼った。じり貧だった。

     

    仕事での安心は得られる見込みが無かった。それを隠したいという一心だったのかどうか、30代は終始ジョギングをした。フルマラソンにも出場した。同時に呑み歩く事も覚えた。つまり節制と不摂生の間を行ったり来たりした。問題がたくさんあった。仕事関係では会社員時代も含めて独立後も、ハラスメントを感じた人が少なからずいる筈だった。酒を飲み過ぎて他人に迷惑をかけた事もあった。

    この10年間で、長男と次男は小学生になり、中学生になった。長女は保育園を経て、小学生になった。子供達との安らかな時間は無かった。怒らなくても良い時に長男に怒鳴ったり、何も悪い事をしていない次男を殴ったりした。長男にも次男にもまともな親父足り得ず申し訳ない気持ちでいっぱいだった。次男は碁を習っていたが、途中夏の合宿の費用を払うのをケチり辞めさせてしまった。妻はうつ病を発症し、長男の癲癇が発覚し、その他口に出せないような問題が起こり、それらの出来事は速足で通り過ぎたが、後に振り返って考えれば考える程、自分に端を発した自分の仕業だとしか思えなかった。

    もし将来自分が幸せを感じる事があるとすれば、これらの犠牲の上に成り立っているのを認め、謙虚になりたいと恋願ううちに40歳になっていた。

     

    40代(2010年代)金に学ぶ

    強くなりたいと志した10代、営業で身を立てたいと思った20代、専門的な技術を活かして儲けたいと考えた30代、その30代は活かす事も儲ける事も叶わず、藁にも縋る思いだった。そして40代になった。さて何をどうすれば良いのか?

    自分に何が足らないのか、何が悪くてこの体たらくなのか、見つけ改善するきっかけとして、般若心経を暗記し、毎朝坐禅を組むようになった。坐禅を組んでも仕事はなかなか増えなかった。増えなくても坐禅は止めなかった。20代までのように師と呼べる人に出会わなかった分、デールカーネギーや、安岡正篤、中村天風などの書を読み漁り、最終的に道元にたどり着き、道元の教えは特に澤木興道老師の書から勉強した。本業で足らない売り上げをバイトで補った。昼間本業をし、夜間バイトをし、睡眠時間は削った。自分の体力には目を見張ったが、しかし屈辱的だった。屈辱的だったにもかかわらず、バイトの収入は何の足しにもならなかった。しかし少なくとも謙虚にはなり得たが、志というものはなく、ただ助かりたいという一心だった。

    深夜の高速道路の保全のバイトは、6か月のスパンで4期、2014年まで務めた。このバイトの貴重な経験が功を奏したのかどうか、2014年後期から2016年前期までバイトをする必要が全く無くなり、本業の年商が1億円を突破した。この時はこの売り上げが半永久的に続くと思って600万円のボルボを買った。税務署から監査が入った。脱税していなかった事が判明し追徴課税なく終えた。しかし売上は間も無く落ちた。どん底まで落ちた。ボルボは売った。自宅マンションも処分しアパートに引っ越した。

    2017年にはまたバイト生活を余儀なくされた。夜間の老人認知症施設だった。翌2018年は本業における仕入先会社でバイトをした。助けて貰いたい一心だった。本業と関連のある仕入先なので、途中からは本業を後押しする大きなビジネス展開を目論める程に、積極的になっていた。その会社にとっても、私上西を得る事は、ただひとりのバイトではないはずだった。しかしこの仕入先では深入りせず身を引いた。当たり前といえば当たり前だが、その会社にとっては、売上の上がらなくなったREALJAPANの復活など期待してはいないのだ。まずは私という労力と能力を確保できれば、REAL JAPANが潰れても良かったのだ。そう感じて、私は下手に助けを求めてはならないと思い距離を置いた。これは偉大なる勉強であった。ビジネス社会において非常に示唆に富んだ事象として、この前にも後にも何度も聞いたり経験したりした。つまりある取引がある面において、感謝し尽せない程有り難い機会になり、だからと云って無料でとか、法外に安い金額で、取引を長期強いられるという事をよく見たり聞いたりしていた。逆の見方をすると強要に甘んじる事があった。少し間違えば公序良俗に反するが、する側はもちろん、される側にも問題があるという事だった。そして、される側にも問題があるとはいえ、強要する会社と強要しない会社がある事にも目を向けた。世の中は広いと感じた。40代になってからのアルバイト経験は、自分が顧客側にある時と、業者側にある時と、雇い主側にある時と、雇われる側にある時と、強い立場の時と弱い立場になってしまう時と、相対的に物事を捉える良い機会になった。理屈ではなく、事実どの立場も体験していたため、どう在るべきか自分の確固たる考えに基づいて行動できた。また有利な立場を利用して、陥りがちな誤りを犯してしまう会社や人、犯さない会社や人、そういう次元を超越して良い仕事を遂行できる会社や人を、目撃できた。

    2019年は本業も地に足の着いた業績を伸ばしてきたが、気を引き締める意味で、毎朝2時半に起きて新聞配達をした。10年間の内7年を占めたそれら様々なバイト経験だったが、特に最後の新聞配達は屈辱ではなく、本業を後押しする力になった。仕事に対する姿勢や取り組みを正すモノとなった。結果として2019年は隙間なく新聞配達をこなした上で、本業の年商を再び1億円に戻した。利益が出ない顧客の要望に根気よく応じていたその先で、契約増になったのが主な要因だった。特に東京エリアでの借上げ数が増え、新聞配達をしながら、東京出張を日帰りでこなし、そもそも得意だったスケジュール管理に、さらに磨きがかかった。

    40代は多くの収穫があった。自分の専門的なノウハウにより磨きがかかり実力になり、社会全般の勉強にもなり、売上に翻弄されながらも、ひとつひとつものにした。好きな酒の量を減らし、好んで励んでいたジョギングから徐々に距離を置いた。そして45歳で久しく忘れていた空手の門を叩いた。空手の世界に戻った事は、偉大なる追い風になった。コレが仕事にあらゆる気づきと好影響を与えた。子供の頃空手との出会いがあった事は冒頭で述べたが、当時私や兄、その他50人ぐらいの仲間達がいた道場が、先生の不在と私の高校卒業に合わせて、消滅したのだが、唯一私の母(健康の為にと時々稽古する程度だった)だけが、辞める事なく別の道場へ移籍し活動を続けており、五段の師範になっていた。私が27年間空手から遠ざかっていた間ずっと続けていたのだ。その母がいる道場に通う事になった。私は十代の頃のように空手を体現できるまでに3年以上を要した。道場の子供達や若い有段者を指導するうちに、仕事と通じる何かを見つけた。その何かをひとつだけ挙げるとすれば、他人に重要感を持たれたいという人間の欲望をモティベーションにしている内は、真に成就しないという悟りだった。

    この40代の時々に、家族を振り返って思ったのは、いつの間にか家族の誰もが大きく成長しているのに驚いた。長男が高校在学中、スーパーでバイトをする姿を見て涙した。そのうち高校は卒業し、私自身がバイトで食い繋いでいる最中、本人の意思で奨学金をあてに専門学校へ行った。2年間無事終え大阪枚方で就職した。途中仕事を変わるが、ドコモショップでの接客業に落ち着いた。次男も高校入学し卒業し、やはり私自身がバイトで食い繋いでいる最中、本人の意思で奨学金をあてに専門学校へ行った。無事卒業し幸運にも飲食店に正社員として就職した2015年だったが、途中救急病院から突然の電話で呼び出される事態もあった。結果として早く辞めてしまって、コープに転職した。正社員として経験を積んだのち、フリーライターの道に進んだ。長女が高校に入学したのが2015年、専門学校などに進学するとは云いださず2018年卒業し、大手自動車部品メーカーに就職した。この10年間で私の家族に対する考え方は大きく変わった。無力を味わったというか、子供達の邪魔さえしなければそれで十分だという事が、判りかつそれが困難だったのだと振り返った。

    私自身バイトを余儀なくされた40代ではあったが、本業では年商1億に届く決算が2度もあった。にもかかわらず途中先が見えなくなり、長く住んだ自宅マンションを処分した。結婚後、長男が生まれて1年経った頃、購入し引っ越し、その後次男長女も生まれ、まさに我が家であり、子供たちにとっては故郷であったこのマンションとの別れは厳しい現実だった。2018年4月末、一時的に賃貸アパートに引っ越してその場を凌いでいたが、2019年の東京での仕事増を理由に妻に強く背中を押されて、東京への移住を決意し、2020年1月から東京で新しい生活が始まった。50歳になった。

     

    50歳(2020年)自分に学ぶ

    東京に移住して売上は安泰だった。地方への出張が減り東京の仕事だけが増えた事で経費の大幅削減につながった。仕事は余るほどあった。長期的な経営を企てるに十分な条件がそろった。それでも不安は尽きなかった。将来の不安はもちろんだが、目前の顧客に対しても消極的な考えがよぎるのだった。30代40代と長きに渡った困難な経験が、慎重さを増長させていた。慎重さも、過ぎたるは及ばざるが如しで、自らの首を絞めている次元に至っていた。

    そんな折に新型コロナという、感染病に備える世界共通の消極的環境が出現した。新規の契約が取れないと予想できた。しかも1年以上は休業状態になると考えた。

    自分の長年の困難な経験から知らず知らずのうちに溜まった消極的な慎重さを内面に抱えながら、今、外的な問題に恐れなければならないとしたら、どれほど愚かな事であろうか。自分の寿命を自ら縮めてはいまいか? 人はそういうものだ、とも云えるが、そうであってはならないという信念が芽生えた。仕事によって、自らが窮する事を、知らず知らずのうちに正当化してはならない。つまり仕事というのは、自分に存在する弱さを助け強さを発揮するための手段とするべきだ。仕事という対象が、そこから逃げたくなるモノであってはならない、と。

    45歳で再び始めた空手は、本来護身術だという。とはいえ護身術として身につくのは難しい、という事が判ってきた。同様に、仕事はともすると、心身を傷つけ命を削ってしまいがちだ、という事が判ってきた。人間はそうなりがちだという事である。今50代になり改めて志すのは、そうならない道を切り拓こうという考えである。

    空手も仕事も護身術足り得る、それこそが最上の目標なのではないか、と。伝馬空を行くが如く、そんな仕事人でありたいと日々真剣に自分と向き合い始めて、人生の折り返し地点を通過した。

    名古屋に住む両親と、もはや大人になり自立して暮らす3人の子供達を案じながら、妻と共に東京で仕事を創造する日々を送っている。

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